
明石昔の都市計画(町割り)
むかし、小笠原忠真侯が明石の城主になられたころのことです。
そのころ天下第一の剣豪といわれ、二刀流で有名な宮本武蔵が、小笠原家の客として明石に住んでいました。
夏のある日のこと、武蔵の住まいへ弟子を八人も引き連れた大男の武芸者がやってきました。暑い盛りだというのに、この武芸者は日の丸の紋をつけた羽織を着ていました。おまけに金色の文字で 「兵法天下一、日本開山無双権之助」と書いたタスキをかけるというぎょうぎょうしさ。
「武者修行のもの、武蔵殿にお目にかかりたい」取り次ぎの弟子があわてて奥へ駆け込むと、弓を削っていた武蔵は少しも騒がず「お通ししなさい」と命じました。奥へ通った無双権之助は武蔵をにらみつけ「さっそくだが、一手お教え願いたい」と試合の申し入れ。武蔵は気乗りしない様子でしたが、権之助にせかされて削り残しの木片を手に向かいあいました。「エイッ!」権之助は一、二メートルもある筋金入りの木刀で打ちかかりますが、武蔵にあしらわれてあせりがつのるばかり。すると、横にはらった権之助の木刀が、武蔵の着物のそでをかすめました。「それ、当たった!」と大声でどなった権之助。と、武蔵は「当てるとはこうするのだ」と言いながら、踏み込んで権之助の額を木刀でハッシと一撃。権之助は「う〜ん」と一声、倒れてしまいました。
武蔵は剣豪であったと同時に、絵や彫刻などいろんなな芸術にすばらしい才能を発揮しました。小笠原侯は武蔵の天才ぶりにすっかり感心して、明石の町を作るとき『町割り(都市計画)』をまかせました。どうしたら城下町として栄えるか、知恵をしぼった武蔵はやがて見事な設計図を書き、人々を驚かせました。それだけでなく、お寺などの庭作りまで腕をふるったということです。
ひとくちメモ
明石には、小笠原家の客分として数年間滞在、住居は人丸社の下にあったと伝えられている。明石の町割りをしたのは、明石城築城が始まった元和四年(1618)のことで、このときできたのは、東本町、西本町、信濃町、東魚町、西魚町、細工町、鍛冶屋町、明石町、東樽屋町、西樽屋町の十ヵ所で、現在も残る町名はこのときにつけられました。